たぬちゃんのオーストラリア旅行(第一日)

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・1991年3月11日(曇)

紆余曲折のあった海外旅行の初日をようやく迎えることが出来た。10時30分に大阪空港集合ということで、我々は意気揚々と空港バス(これも生まれて初めて乗った)で伊丹へと向かった。予定より15分程度早くついた我々は早速指定された待合場所へいったのだが誰もいない! カウンターに誰もいないではないか!「ま、集合時間まで少し間があるからだろう」と気楽に構えていたのだが、11時になっても誰も現れない! あわてて旅行会社(生協旅行)に電話するが「そんなはずはない。場所を間違えているだけだ」との回答。まったく役にたたない(このあとこの旅行会社のいい加減さに何度も泣かされることになる)

11時30分頃に同じようにうろうろする2名を見つけ声をかけるとやはり我々と同じツアー客だった(大阪のF君とKさん) 5名に増えた我々は再度旅行会社に連絡するが「担当者に連絡がつかない」といういいかげんさ。

11時50分頃、我々は旅行そのものをあきらめ、いかにして返金させるか? を考え出した。
ダメもとで空港係員(ANAのかた)に相談すると、行程表から伊丹ー羽田が自社便であることから、いろいろ調べてくださった。その結果、確かに我々の名前で予約が入っていること、我々のチケットがなぜか成田にあることを突き止めてくださった。その上特例ということで搭乗券を発行してもらい、なんとか飛行機に乗ることができた。

成田からの飛行機は20:00発のため、実は東京で6時間あまりの待ち時間があったので当初は秋葉原にいくつもりだった。しかしとりあえずチケットを入手しないと不安なので、リムジンバスで成田に直行した。

成田のカウンターにはちゃんと人がおり、我々の航空券一式を手渡してくれた。係員に伊丹での件について文句をいおうかと思ったが、どうも受付を代行しているだけのようなのであきらめた。

その後数時間を成田空港の中で過ごし、18時過ぎに出国手続きをおこなったのであるが、税関職員の愛想のなさはひどかった。機械のほうがよっぽど感情豊かなのではないだろうか? 別ににこにこしろとまでは言わないが、少しくらい声を出してもいいんじゃないだろうか?

19時30分頃にカンタス22便の搭乗が始まったので我々も早速乗り込んだ。先ほどの飛行機は急いでいたため、ほとんど記憶に残らなかったが、今回は搭乗口からゆっくりと眺められた。カウンターの係員は笑顔で「いってらっしゃいませ」と言ってくれた。やっぱり民間は違うな。
通常ツアーの場合は、後ろのほうに席をとられることが多いのだが、東海大相模の一行が後ろのほうに固まっていたため、比較的前の席となっていた。しかもジャンプシートの前と、場所は非常によかった(なんせ前に席がないから自由に移動出来る)

20時過ぎにシドニーに向けて飛び立ったのであるが、この時に感じたGはかなりのものだった(以降何度か飛行機にのったが、この時ほどきついGを感じたことはない)ジャンボはやはり加速が必要なのだろうか?
機内のサービスはJALとカンタスの共同運行便ということもあり、スタッフの中には日本人も1人だけおられた。我々の席をサーブしてくれたのはオーストラリアの人だったが... でも時間のある時には、英語教室を開いてくれるなど、非常にフランクな人々だった。

そんなこんなで我々の前途多難な旅行はようやくスタートした。

<後日談>
我々は、この旅行のあと生協旅行に対して抗議を行ったのであるが、明確な回答はまったくもらえなかった。今ならば、もう少し抗議方法を考えられたのであるが、当時は手紙を書くことくらいしか思いつかなかったのだ。いまでもこのような状況が続いているのだろうか...

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